亜熱帯ジャンクカメラ・オートバイサーフィン

ネットオークションのカメラ・レンズの相場を知り安く買って時には売ってホットな写真ライフを楽しもう。気分はもう亜熱帯! 追記:オートバイ(バイク)・ツーリングの話もあり

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(キヤノンが本気を出してしまった電子スチルカメラ)

 誰も知らないし興味もないから価値も分からない。そんなクラシックデジカメにスポットライト(いや、コンテンツの趣旨からしてバルカーか?)をあてるのが、このHPの趣旨である。そうは言っても、本カメラくらいポジションが暗いと、なかなか話題作りも難しいのだ。方々のコンテンツで報告しているが、1995年にカシオのQV-10でデジカメが時の人となり、1998年のファインピクス700で(コンパクト)フィルムカメラの代用品として使えそうだと市場が認知し始めた頃も、キヤノンのデジカメ戦争への参戦は慎重だった。もっとも、オリンパスやリコーのように会戦初期から積極的に展開していたメーカーもあるが、この頃は他の光学機器メーカーも煮え切らない態度であった。この時の経営判断や人材・設備投資の逡巡がペンタックスの失速になりコニカの消滅を決定づけてしまう。

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(フルセットだと結構な重さだ)

 拙僧はリアルに知らないのだが、デジカメ以前に電子スチルカメラというジャンルが存在した。文献によると「アナログ式にデジタルデータとして画像を記録する」というような、よくわからないことが書いてあって、現在のデジカメと何が決定的に違うのかよくわからない。拙僧の理解が正しいのかちょっと自信がないのだが、簡単に説明するとビデオカメラで撮影したムービーの1カットを切り出してスチル画像として記録するもののようである。ムービーカメラ(動画カメラ)のジャンルはスチルカメラよりも一足先に撮像素子の露光を電気的な信号に変換して記録していた。それより前は8mmシネカメラで撮影していたのだ。多分、「アナログ式にデジタルデータ」という表現なのは、撮像素子か記録する演算・増幅回路がオペアンプのように振幅を持っていて、「0と1」あるいは「ONとOFF」で記録するデジタルデータと違う仕組みだと言いたいのだろう。そいう意味でも日本語的にはおかしくて「(撮像素子が受光したデータを)アナログ式に電子データとして画像を記録する」と表現するべきだな。その辺の不明瞭な表現はガジャットライターさんならともかく、写真家さんや報道カメラマンの回想だったりすると仕方ないよな。今更、「オペアンプ」などという単語を出したところで意義も薄いし。


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(これが記録媒体のビデオフロッピーディスク)

 電気的な記録が素晴らしかったのは、撮ってスグに再生できたことだった。当時のビデオカメラはVHSやβのようなテープ媒体に記録していたので、記録した部分を巻き戻す手間があった。それに、液晶ビュワーなんてないから現在のEVFに相当するファインダーを覗きこんで、しかもモノクロ画像だったのだが、それでも画期的なことだった。電子スチルカメラはビデオカメラのシステムの一部を拝借した物だったのだが、基本的には従来のフィルムカメラと同じように光学ファインダーで記録し、撮影画像をその場で確認することはできなかった。記録は小型のフロッピーディスクで行う。現在ではフロッピーディスクの説明も厄介だな。キヤノンだと電子スチルカメラとしてQ-PICシリーズを展開していた。拙僧もよくわからないのだが、ビデオカメラの撮像素子は25~40万画素級だとされている。拙僧の手元にあるQ-PICの撮影画像のサイズが320x240だから、丁度、25万画素級のQV-10と同じくらいだ。画質的にはQV-11よりもいいくらいだが、多分、Q-PICの方がレンズが少し良くてQV-10/11が強烈な画像圧縮を行っているのだろう。Q-PICの画像が37KBなのに対し、QV-10/11はjpegに変換するけど14KBだからな。その代わり、QV-10/11は液晶ビュワーで撮影画像をスグに確認できて、100枚近い画像を撮影出来る。実際に電子スチルカメラの撮影画像を印刷したことはないのだが、とても鑑賞に堪えるクオリティではないだろう。QV-10が成功したのは、時代がWindows95でありインターネットや電子メールというインフラに恵まれていたからだ。なので、事務部門の女子社員と2ショットを撮影してメールアドレスを獲得するために、大枚10万円を払う価値があったのである。電子スチルカメラで撮影した画像はTVで鑑賞する。当時のブラウン管TVなら25万画素級の撮像素子でもムービー(動画)なら十分だった。イノベータ―の方々は兎も角、アーリーマジョリティにとって、ムービー(動画)カメラの画質は大して問題ではなかった。しかし、目や脳が求めるクオリティが静止画と動画では異なる。そもそも、写真ならアルバムを開くだけなのに、TVに接続をするのは面倒だ。端子を繋げるだけだと思われるかもしれないが、80年代だとファミコンの接続ですらお手上げで、馴染みの電気屋さんからプロパー価格で買わなければならない時代だったのである。

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(パソコンに画像を転送しようとすると、こんなに面倒になる)

 なんで、そんな物足りないというかニーズが不鮮明で決定的に足りない電子スチルカメラが発生してしまったかというと、当時のビデオカメラはとても大きく重かったのだ。記録媒体のVHSテープも大きかったし、カメラと記録ユニットが別体で使い勝手も悪かった。おそらく、バッテリーも羊羹くらいの大きさでロクに持たなかっただろう。価格も高くて100万円くらいした。しかもTV放送を記録する為には別の受信ユニットを購入しなけばならなかったのだ。拙僧の手元にあるビデオフロッピーディスクに前オーナーの画像が残っていたのだが、対戦車ロケットのようなビデオカメラを構えた人物が写っている。戦場で報道カメラマンが狙撃の対象になるのだが、ソビエト製対戦車ロケットのRPGシリーズを構えた姿にそっくりになのだ。それではあんまりなので静止画像に限定して、携帯できるサイズにしたのだろう。それだってコンパクトとは言えないが、ポラロイドカメラくらいのサイズにはなった。困ったのはポラロイドカメラは撮影して1分後くらいには鑑賞できる写真が出てきたのだが、電子スチルカメラは家に帰ってTVに接続しないと鑑賞できない。


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(電子スチルカメラで撮影した前オーナーの画像に、当時のビデオカメラの運用風景が写っていた)
(個人が特定できそうな部分は修正している)

 そもそも、電子スチルカメラは報道のニーズに応えたものだった(と思う)。今のように通信インフラが完全ではなく、転送速度もクオリティも低く単価も高かった。拙僧が知り合ったばかりの妻が海底ケーブルのデータ転送枠を売買する仕事を(も)していたが、2003年頃までそういう仕事が健全だったのだ。いや、今でもあるんじゃないかな。当時の事情はニコンの「ニッコール千一夜物語」だったか「その姉妹たち」に詳しい。当時、報道インフラの第一人者であったニコンは「伝送システム」を提供していた。これはフィルムスキャナーとFAX転送装置を組み合わせた代物で、テレタイプから発展した物だろう。例えば中東辺りで有事が発生した場合に、報道のスタッフはカメラ・レンズと最低限の暗室装備、それに出来る限り多くのフィルムを抱えて飛行機に乗った。それで、現地で撮影したフィルムを迅速に現像し、「伝送システム」でフィルムを読み込み転送したのである。つまり、いつ迫撃砲弾が着弾するかもわからないホテルの一室でフィルムを現像していたわけである。時間的な制約や移動時の装備の増加もあるが、ひとまず水がなければどうにもならない。電気や電話は通じても水が安定的に供給されるとは限らないからな。その辺の現場のニーズから電子スチルカメラは発生したようだ。電池スチルカメラの画質はプアだったが、当時の通信インフラもプアだった。ヨーロッパのような比較的設備が整った先進国でも、衛星中継のライブ中継が滞ることは珍しくなかった。1990年代になると日本企業が中国の工場に生産を委託、あるい合資会社を設立するのだが、日野市くらいの敷地の工場に電話が1つしかなく、しかもその電話のある特別な部屋に入るには数名しかいない監理者しかカギを持っていなかった。ただでさえ断続的になる回線だったが、最初は双方向通信が出来ず、向こう側が話している最中はこちら側の声が伝わらなかった。そんな状況だから転送データ量は限られているから高画質の画像転送はムリだし、そういう画像を掲載する当時のモノクロ印刷の新聞掲載画像のクオリティなんてたかが知れている。現地で現像するよりは遥かに楽だし設備も簡素になり、なによりも撮影した画像が編集局なり新聞社に届くデュレイが飛躍的に短くなる。これは速度が重要な報道にとっては福音であった。ニコンの電子スチルカメラであるQV-1000Cは、コンシューマの知るところではなかったが、一時期の報道インフラを支える重要なマイルストーンとなる。ニコンが冴えていたのはモノクロ専用機にしたことで、プアな画像データでも、それなりのクオリティを満たすことができたのだ。前述の通り、どうせ露出はモノクロの新聞紙なのである。こういう発想は営業やマーケティングあがりのプランニングでは出てこない物で、現場に近いニコンだからこその逸話になるだろう。

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(職員の通勤用自動車よりも高価なカメラだから、子供の手の届かない所に置かないとな)

 しかし、ニコンの成功例は稀である。電子スチルカメラの分野に多くの伝統的光学機器メーカーと何故かカシオが参戦し、そして無残にも惨敗した。先のニコンだって、重要なインフラを担ったが、それで商売として成功したかというと、そうでもなさそうだ。どういう訳か、各メーカーは電子スチルカメラにかなり本気だったようで、その損害はメーカーによっては深刻な打撃として経営を危うくした程のようである。各光学機器メーカーがデジカメ大戦への参戦に慎重だったのは、その苦い経験によるのだろう。確定的に言えるのはカシオの場合は社内で「カメラ」という単語が禁句になって程である。そのカシオがQV-10の開発にあたって、本来のデジタルカメラという素性をひたすら隠していた。「カメラ」などと企画書に載ったら即座に破棄されてしまう。そこで「撮影もできるコンパクトTV」として開発し、役員会議の最終決定でTV機能を外して「デジタルカメラ」という本来のコンセプトとして商品化に至ったのは、NHKの「プロジェクトX」で有名である。

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(これが伝説の元祖デジタルカメラ)

 現在では8mmシネカメラを説明する必要もあるな。ちょっと前までは昔の時代を再現した映画やTVドラマで35mmや16mmのシネマフィルムが登場したので、ロープのように細長いフィルムに感光し、小さなスチルカットを連続再生することで動画を記録・再現していたのを説明できたのだが、この1~2年で急速に難しくなった。若い連中が体感的に理解できないのは分かるのだが、中年やシニアの方もピンとこない場合が多い。忘れてしまっているのかもしれないが、どうも自分の運動会を8mmシネカメラで撮影してくれるような両親は恵まれていたらしいな。東京や大阪は恵まれていたのかもしれないが、8mmシネマが黄金時代だったとされる1960~70年代の日本は語られているよりも貧乏だった。拙僧が生まれたのはギリギリ8mmシネマが健全だった時代に重なっているが、実体験としてないからな。池袋から1.5時間の埼玉の寒村だって、それは酷いモノだった。「三丁目の夕日」にも8mmシネカメラや映写機が登場しないが、やはり高価なもので文学青年の駄菓子屋界隈では存在しえない物だったのだろう。そういう旧世紀の産物であるシングル8が2013年までサービスを継続し、今のところスーパー8のフィルム調達と現像が可能なのは奇跡である。

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(この細長いフィルムに連続した小さなカットを撮影するのだ)

 拙僧は幼少期に8mmシネマに接した記憶は無い。「DAICON(日本SF大会大阪コンベンション)」の界隈で接していたのだろうが、それが8mmシネマだと認識をしていなかった。拙僧の家庭事情だと「くるくるテレビくん」だって買ってもらえる可能性は限りなく0%だったんだから。拙僧が「生きている」8mmシネマに接したのは上京した専門学校生時代である。拙僧が新宿の割と治安に問題のある地区の専門学校を選んだのは、画期的なCG映画である「ジェラシックパーク」を作成したシリコングラフィクスのインディゴを設置していたからだ。もっとも、アプリケーションの類は一切なく、プリミティブな線画を描くのもC言語でGLを使ったプログラムを組まなけらばならなかった。勿論、旧世代のワークステーションやPCと併設でtelnetでログインしなければだし、CGラボの教員(という自覚は彼らには無かっただろう)の寵愛を受けた連中が込み入ったレンダリングをすると、全ての端末が極端に遅くなる環境であったが、それでも大したものだった。拙僧は寵愛を受けていなかったが女性教員(知的レベルの高いキツ目の美人)と何度か飲む機会に恵めれて就職も斡旋してもらったので、それなりに上手くやっていたのだろう。

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(最強の8mmシネカメラの一つであるキヤノン1014エレクトロニク)

 その専門学校の友人に8mmシネマ経験があった。彼は映画志望の青年であり、一旦はサンライズ(アニメではなく照明の)に就職したものの、照明スタッフでは映画仕事にはたどり着けないと悟り、新大久保のアテニならない専門学校のCG科に入学したのだ。ちょっとス増の知れないところがあり、2~3歳年上なのだが杉並区の方南町のマンションで人暮らしをしていた。一度だけ父親が新宿の誰でも知っている巨大ビルの設計をしたというようなことを言っていたが、少々家庭事情が複雑のようだった。もっとも、身の上などは本人は気にもせず、部屋は趣味のエアガンや映画のポスター、様々な趣味アイテムと酒瓶で溢れかえっており、イルクーツクの寒村からやっと越境したばかりの難民の拙僧には羨ましい限りだ。そういえばCBR400RRに乗っていたなあ。今の拙僧の家庭内カメラ部屋の混沌具合からしても、思春期における拙僧の彼からの影響は小さくないな。その彼が高校生時代に傾倒していたのが8mmシネマだった。彼は特殊撮影を好んでおり、そのバイブルがフジカZC1000で撮影したとされる「あのウルトラマン」なのだ。他にも何某の企画書のコピーとかアニメスタジオのパイロットフィルムとか、どういうコネクションなのかよくわからなかったが、コレクションが豊富だった。彼と彼の友人による短編特撮映画(というかストック・フーテージだな)を観た。実際には8mmフィルムで撮影したものをテレシネで8mmビデオで再生したものだったのだな。1990年代に至っても、そういう本気で映画や映像を目指す青年は8mmシネマに一時期傾倒するものだった。拙僧よりもちょっとだけ上の世代である庵野も8mmシネマの経験があるそうだ。彼らを8mmシネマに向かわせた理由の一つは編集にある。当時のパソコンでは動画を編集することはほぼ不可能で、デザイナーが信仰するマッキントッシュですら、実質的には二次元画像の編集しかできなかった。ちゃんとした動画編集ができる機材を個人が揃えるのは、常識的には不可能だった。8mmシネマなら原則的にはハサミとテープで編集が可能だったのだ。もう一つの大きな理由は、やはり既に8mmシネマ機材は枯れた文化であり、確かに現像代は高かったがシネカメラにしろ映写機にしろ安かったのだろう。割と最近でも8mmシネマや機材を登用した若者向け映画やアニメが登場するらしいのだが、監督や演出の世代のアンソロジーなのかもしれないな。

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(映写機への8mmシネフィルムの装填はリスキーであり、拙僧もちょくちょくフィルムを千切っている)

 拙僧が自分で8mmシネカメラで撮影を始めたのは2004年からである。諸般の事情でカナダの移民生活に敗北し、精神面でも体力面でも絶望的な気分だった。東京から田舎の三河に逃げ帰ったのも、東京で生活するエネルギーに自信がなかったからだ。そんな時にハードオフでデットストックのフジカ ZXM300に出会ってしまう。価格は380円か480円だったはずだ。バンクバー在住時代にヤシカのスーパー8シネカメラに関心を持ったのだが、それは叶わなかった。カメラは50カナダドルだったのだが、映写機とかひとまず揃える勇気がなかったのだ。それでも、普通にDP屋にネオパンの現像を出しに行ったら、スーパー8を出している白人がいてびっくりした。DP屋の婆さんに聞いたら、今でも(2003年)ちょいちょい客がいるようで、先ほどのヤシカの中古のスーパー8を売っているカメラ屋を紹介してくれたりもした。ちなみに彼女はフジフィルムのネオパンを知らなかったな。ZXM300を手に入れた後に現行でシングル8のサービスが生きているのを知って感動したなあ。シネカメラを手に入れたら映写機も欲しくなるから、ハードオフで5000円前後でフジカスコープM35を手に入れ、2000円前後でフジカスコープM3を手に入れる。詳細は省くが、その後、1000円のフジカスコープM40とか180円のフジカスコープM20を手に入れてるが、使い勝手はフジカスコープM35が遥かにいいので、5000円はちょっと高かったが妥当な金額だろう。エルモ ST-1200HDもイイが、拙僧にはオーバースペックというか出来過ぎているな。

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(映写機で見る映像はいいもんですよ)

 この辺の8mmシネマ関係のコンテンツを作り始めた2004年と10年後の現在の2014年では8mmシネマの環境が全く変わっていて、コンテンツの妥当性は低いのだが、正直今更コンテンツを書きなおす気にならない。拙僧が疲れ切っていた時に8mmシネマと遭遇し、コダクローム40や育英社のリーズナブルなスーパー8の現像サービスに触れることができただけ幸せだ。今でもコダックではスーパー8のサービスを継続しているが、3分+αの撮影時間で5000円弱の現像料で、フーテージが返ってくるのは3カ月後である。拙僧の撮ってはシングル8もスーパー8も終わってしまった。しかし、妻との何気ない自転車ツーリングの風景や、きな臭くなる前の北京天安門を撮影できただけでも幸運だと思っている。これは20~30年後に妻と鑑賞して、我々の人生が幸せだったと再確認するために撮り貯めたものであり、10年後くらいだったらフーテージも引っ張り出すつもりはない。

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(左がシングル8で右がスーパー8)
(伝説のコダクロームに接することができたのは幸せだった)

 それで8mmシネマについては片が付いたのだが、困ったのはプレスト400の終了である。拙僧の師団はこの事実に動揺して士気の維持が困難になっている。既にプレスト400の流通量は限定的で、先日、キタムラでネット注文したらメーカー在庫は無く、三河近郊でひとまず集めてくれたそうだ。もっとも、これは3本パックで1000円ブツであり、1本400円くらいの単品売りは店頭で確認できる。

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(それなりに買い込んだプレスト400)

 今のところ、フィルム撮影のモチベーションを維持できているが、買い貯めたプレスト400が無くなると自信がないな。TMAX400なんて1本1000円になるそうだ。そりゃ無理っすよ。

 それでいて肖像権とかプライバシーとか、文句を言う連中がいるのだ。そういう連中が個人情報保護法を前文でも読んだのかといえば、そんなことは全くないだろう。要するに「ヤカラ」なのだが、そういう連中と関わるのも面倒だなと思い始めているのだ。

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(こいつは本当に血液である)

 もう、単車趣味に戻ろうかと思っているのだが、ホンダの2stオイルが製造中止になったら、拙僧は立ち直れないだろうなあ。
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コメント

毎度です Rikkie師匠。

今回はまた長文・大作ですな!。
美味しいワインでも、仕入れられたのでしょうか?^^)。

>電子スチルカメラ・・・
っと言えば、"SONYのマビカ"が思い浮びますね。
海外遠征準備中、記録媒体がFDであることから検討しま
したが、書込みのあまりの悠長さには呆れかえりました。
(もちろん、高くて買えませんでしたし^^;)

  • 2014/05/29(木) 00:17:11 |
  • URL |
  • 鍛冶屋 #xw27v.Lk
  • [編集]

どもども、鍛冶屋殿。

流石、お察し通りです(mm。
行きつけの三河民族系酒量販店でシェリーが4種類置いてあるんですよね。いつも1本づつしかなくて、どうも拙僧が買うと仕入れるらしいんですよ。それがちょくちょく仕入れを替えるらしくて、新しいブツが入るたびに買うんですが、なかなかいい物なんですよ。酒屋もペットボトルで焼酎を買いに来る客ばかりじゃ面白くないから相手にしてくれるのかもしれないですね。
三河も捨てたものではないですなあ。

実を言うと、今回のブログはキヤノンのパワーショットS10というキヤノンも忘れたいような前時代のクラシックデジカメのコンテンツを書いているうちに長くなってしまったのでスピンオフしたんですよね。エネルギーを無駄に使いすぎですよね。それでも読んで下さる方がいらっしゃるのでありがたいです。

ソニンさんのFDを使った「デジカメ」もありましたが、酷い代物でしたよ。ミニDVDのデジタルビデオカメラも、ちょくちょくファイナライズで失敗してそれまでの撮影記録がパーになりますしねえ。ソニンさん実験型マーケティングはクレーマーの現在で通用しないんじゃないですかねえ。

  • 2014/05/29(木) 09:50:02 |
  • URL |
  • Rikkie #1Nt04ABk
  • [編集]
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