
今年の「宮崎アニメ」は「零戦」、つまり帝国海軍の零式艦上戦闘機の設計者が主人公である。「宮崎アニメ」と親密でない拙僧も「零戦」と聞くと無視し辛いよな。だが、主人公の声をあてているのが「エヴァ」の庵野だと聞いて一気に冷めた。宮崎駿のような偏屈なジジイは庵野のような「一山あてた若者」を芋虫みたいに嫌っていると思っていたのだが、どういう風の吹き回しだろう。いや、吹き回ったのは「風」ではなく「金」かもしれないな。庵野なんて金も時間もあるんだろうから、例の大好きな「女子こーせー」相手にレンズでも向けてプライベートVでも撮ってりゃあいいのに。庵野起用が宮崎側からのアプローチなのか庵野側のアプローチなのかは知らないし、調べたくもないのだが、アニメなんてのは大の大人が真面目に相手にするものではないことが確認はできたな。拙僧が「金」説を唱えたいのは、今回の「宮崎アニメ」のテーマが商売的には難しいのではと思ったのだ。今どき、アニメ映画を作ろうと思ったら海外市場を意識しない訳にはいかないな。金を持っている外国人と言えばアメリカ人かちゅー国人か、ごく一部のかーん国人だ。何れにしろ「トージョーゼロ」をポジティブに受け取ってくれる連中とは思えないな。思うに、宮崎も老い先を感じて「自分が好きなような(アニメ)映画」を元気なうちに作っておきたいと思ったのかもしれないな。前大戦の象徴たる「零戦」をテーマにするのはマーケティングからすると、かなり難しいのだ。時代はグローバルなので裕次郎さんの映画に自衛隊が協力できるほど寛容ではないのだ。あの偏屈な松本零士だって「宇宙戦艦ヤマト」とか「コスモファイターゼロ」を登場させるのがやっとである。もっとも、元々の「宇宙ゼロ戦」というネーミングセンスの無さも図られるところだが。

「宮崎アニメ」の同一的なテーマは「事態(世界・環境)の遷移と立場の変わらない主人公」であろう。最近までは「死と再生」のような重めなテーマなのかと思っていたのだが、考えを変えた。「再生」などという大きな変化ではなく、「事態(世界・環境)の遷移」という程度だろうな。別に、だから高尚でなくて低俗だとかそういうことではない。「主人公(人間だったりたぬきだったり)あたりが、個人の能力で頑張ったって事態(世界・環境)が、そうそう変わるものかよ。」というのが宮崎あたりの言いたいところなのだろう。「ナウシカさん」は人間の環境の激変を一時的に食い止めたが、それで人類の行く末が明るくなったわけではない。トルメキアが改心した姫様の手で柔軟に人類の領域を広げることも無ければ、依然「風の谷」の行く末が悲観的なのは変わらない。「天空の城」だって、グライダーがどこかの土地に不時着しても、若いカップルが結ばれて新たな世界観を作るかと言えば、そんなことはないだろうな。今でもそうなのかはしらないないが、90年代までは「宮崎アニメ」を発表する度に徳間書店が「オマージュ・ムック」を発行していた。そのムックで宮崎本人が言っていたのだが、「魔女さん」が「飛行機青年」と結ばれることはないだろうとのことだ。魔女という存在が消え去る「事態(世界・環境)の遷移」に変化があるわけではない。多分、宮崎本人が第二次性徴という「事態(世界・環境)の遷移」の際に恋愛が実らないという「立場が変わらない」経験をしたのではないかな。いや、フロイト辺りはそう言うんじゃないですか。

拙僧が考えを変えたのは妻と「たぬきさんの話」をTVで見た時だ。初めから見ていたわけではない。四国からの援軍を呼び寄せるくだり辺りからだ。妻は、どういう話なのか分からないというのだな。つまりねえ、ちゅーか人民共和国が設立したのは何時よ?西暦で?

「死の国だよ。」
上手いこと言うねえ。確かに、今更ながら気づいたのだが四国、つまり「死の国」からの援軍は結局「並みのたぬき」達の「死の国」への引導を渡したに過ぎないのだ。だから四国からの援軍だったのかあ。それは兎も角としてちゅーか人民共和国が設立したのは何年よ?ちゅーかソビエトではないよ。人民共和国として。

聞き直したら「1949年」で「死の国」なのだそうだ。上手いことを言うなあ、それはメジャーなジョークなのだろうか。ともかく、1949年に人民共和国が成立して翌年には東ウィグル(トルメキスタン)が消滅して新疆ウィグル自治区になるよねえ。戦前は一緒になって吐藩を苛めていたのに。つまり、多摩ニュータウンに人間が入植するのも同じことよ。それまで暮らしていた「たぬきさん」はどうするかって?同化するか、テロを起して死んじゃうか、穏やかに死んじゃうか、或いは天山山脈の麓で「どっこい生きている」かもしれないよね。塩湖辺りは高速道路が出来て「交通事故」で死んじゃうかもしれないけど、天水やハザック村辺りなら、上手く葡萄でも売っているんじゃないの。ああ、また話が訳分からなくなってしまったな。「多摩の山奥」の環境の遷移は止められず、「たぬきさん」の悲観的な立場は変わらないな。思うに「豚さんの飛行艇」は例外だ。あれは、宮崎流の「皮肉な商売」を弱めて「自分が作りたかったアニメ映像」を作った形跡がある。最後の方で「大きな戦争が有って環境も変わったけど、相変わらず旧態的な飛行艇で飛んでいるオヤジ。」という風に纏めたけど、あれは主テーマではないな。主テーマは「熟年の青春」だろう。NHKも良くやる手で、今や偉くなったプロディーサーが「黒木ひとみさん」に性的なセリフを吐かせている。あながち、宮崎と同様に不遇な第二次性徴時代のウサを晴らしているのだろう。個人的にはNHKの「熟年の性的行為」と「障碍者・要介護者」と「セクシャルマイノリティ」の話題をローテーションで組むやり口は民放には出来ないので持続してほしい物だ。

もっとも、不遇な第二次性徴時代は拙僧も同様だしな。結婚も10年を経過して、いまだにちょいちょい女子の携帯アドレスをゲットして、家に呼ぶのはイルクーツクの友人からすると「浮気」だそうだ。いや、拙僧だって女子と二人っきりと言うのは滅多にない。大抵の場合は「妻の手料理」で招待するのだ。拙僧の妻が満足に作れるのは餃子と饅頭くらいだけど、概ね好評だ。妻も「自分を餌に女子を釣ってる」と言うのだが、別に不満では無い様だ。むしろ、「もう40(歳)も過ぎて遊んでくれる女子何て居ないんだからマメにメールをしなさいよ」と窘められるくらいだ。そういうのは、イルクーツクの友人からすると「更に深刻な事態」らしいのだが、その辺は拙僧は国際結婚なので多少の感覚の違いはしょうがないよな。我々は子供もいない夫婦だし、外の風を入れないと苔むすしねえ。拙僧の努力は褒めていただきたい。

なので「水着女子のビーチ撮影会」だって、妻は快く金を出してくれた。その辺の商店街で「市井の肖像権」を撮影するより、よっぽどリスクが低いという認識なのだろう。そのビーチへと向かう名鉄のローカル線で読むためにバックに突っ込んだのが図書館で借りた「唐沢俊一」と「大塚英二」のサブカル本だった。自分の脳が第二次性徴時代から全く進化していない事実には泣きたくなる。唐沢の文章はご活発である。信憑性はかなり怪しいのだが、本人も言っているように唐沢の文章を真に受けるとロクな大人にはならないな、拙僧も含めて。挿絵が「ソルボンヌK子」なのは「吉田照美」と「小俣雅子」がリアルな関係だと知った時くらい胸が鬼悪くなったが、彼の文章は消費財として(錯誤的ではあるが、ある程度は)時代に適応しているようだ。相変わらずなのは大塚だな。「萌え系キャラのビジュアルを構成するパーツは要素に還元できる。この形式性は近代に発生したものではなく、ロシアアバンギャルド時代にさかのぼる。」という事を説明するのに8頁くらい割いて分かり辛く説明している。そういうのってSNS系ネット時代には響かないっすよ、と助言差し上げたいぐらいだが、彼はそのまま人生を全うなさるだろう。会うとイヤミなジジイだろうしな。大塚が「宮崎アニメ」のロールモデルとしている例として「婆ガワ」を挙げていた。生い立ちの恵まれない美しい娘さんが、環境の遷移の弊害を受けないように「婆」に見える革を被って生活し、しかるべき王子様が現れた時に正体を現すモデルである。そういう話は古今東西を問わず存在する。立場を変えれば「美女とビースト」だしな。拙僧は宮崎の青春時代の不具合がそこまでではないと思っていた。でも、考えてみたら「旧体制の王族(もしくはテクノクラート)の娘さんが身分を隠して漂流」というのは「天空の城の王女さん」だって「未来世界の”らな”さん」だって同じだしな。「風の谷の王女さん」を初めて見た時には防毒マスクの余りにもグロテスクなデザインに閉口したのだが、あれも「婆ガワ」に見えなくもない。それが宮崎のロリター趣味の趣向なのか、何かしらの(皮肉めいた)メッセージなのかは、市井のブロガーの拙僧は断言しないことにしよう。ダディと違って2馬力フォロワーは健全で敵にするには危険だろうからな。

宮崎が「風の谷」を作った頃、既に彼は拙僧から見ればジジイの年代だった。当時、3大ロリターアニメ作家として宮崎と「富士夫のF」と「ナントか」は有名だった。「ナントか」が思い出せない。都築和彦なんつーのはひよこの頃ですよ。「事態(世界・環境)の遷移と立場の変わらない主人公」だが、現実世界に照らし合わせると「事態(世界・環境)の遷移」に対して「立場の変わらない主人公」ってのは難しいよな。「主人公」を「我々」に替えたら「写真のデジカメ化への遷移と立場の変わらないフィルム者の我々」なんてのは難しい。そうあって欲しいという願望だな。そういう意味だと、拙僧も歳を取ってジジイに近づいているから宮崎の気分が理解できるようになったのかもな。所詮、髪を赤くして若い連中とオフ会に参加しても中年よねえ。それでも、最新の「ダイ・ハード」でフィルムシネカメラ(恐らくアリフレックス)を使っているのは一筋の希望がある。無論、結局はデジタル化しているのだが、拙僧だってモノクロネガをスキャナーで読んでコンテンツに貼りつけているではないか。「立場が変わらない」なんてのが不可能なのは会津の八重さんも、我々も同じだな。

現実に、シングル8の現像サービスがとうとう本年の9月で終了となった。ああ、もう1カ月ではないか。盆の帰京では在庫を使い切らないとなあ。

